子どもとの関わりに適用される動物的上下関係。
なんとなく、調子がすぐれない。
けど、今日も子守り業務に出かける。
幼稚園児に「そろそろ時間だからカバンを準備してほしい」と伝える。
私は正直言って、自分の荷物は自分で準備してほしい。
「先生も手伝ってくれるならいいよ」
この返事で少なからずイラっとする。しかし、自分を抑えて「じゃあカバンの中身出して」と言う。
どうせ、昨日のものが入りっぱなしなのだ。
するとまた条件を付けてくる「ここにカバンをもってきて」
持っていく。しぶしぶ中身を出すが出すだけだして片づけるよう命じてくる。
なので、自分でやってと突き返す。
正直私はここでもうキレている。
カバンを投げつけたくなる気持ちを押しとどめて私は別のことを始める。
すると、なぜかその子の2歳年上の姉が「私がやる」とカバンの準備を申し出る。
私は自分でやれよ!と言いたい気持ちを我慢してそっぽを向く。
そして、本人は何もせずに、姉に任せっぱなしなのである。
まあこの状況が私は嫌な訳だが、ここでいつも自分の問題に向かざるを得なくなる。
今日の私というのは、保護者のマインドになかったのだ。
面倒くさがる彼女と同じに在りすぎているのだ。
それを彼女は持ち前の臭覚でもって、同等の存在として振舞ってくる。
それが「手伝ってくれるならいい」というどっちが上だか分からないことを言ってきたのだ。
私といえば、その保護者として、言い換えれば大人として、上の者として振舞うことが非常に面倒くさい。
且つ、慣れていない。
彼女との関わりでは、そのような動物的上下関係の規範が適用されているようだ。
彼女はそのルールの下で生きている。
非常に面倒くさい。
どちらかが上ならば、上に立った方がゲームのルールにおいて優位であり、他方を服従でき、支配できるのである。
同等になった場合、相手はすかさず上に立とうとしてくる。
それが当たり前の振る舞いだろ?と言わんばかりである。
そういったパワーゲームが私は本当に面倒くさい。
たかが小さな世界で上に立ってなんだというのだ。という気になるのだ。
しかし、そのルールでしか動けない彼女は、嫌なことは嫌で、なんで貴様に命令されなくてはならんのだ、という態度をとる。
私はむかつく訳だ。
しかし、彼女はしぶしぶ従うことがある。
その際には、モノに当たったりする。
それが更にむかつく訳だ。
しかし、これは私が相手に、同等だよ、と言いつつ命令するという矛盾した態度をとっていると相手に理解されているからでもある。
相手とは人生が浅く、そこまで様々なことは考えられないのだ。
ここで、もう一つ、相手の理解のベースに合わせてこちらの振る舞いを調節しなければならないという気を遣う事態を発生させなければ、
イラっとすることが増えるのだ。
もしくは、こちらが、面倒くせーと思っているとそれが伝播している模様だ。
つまり、いづれにしても私にとって面倒くさいのである。
そして、今日の私には、相手の規範に合わせてあげるということを面倒くさがったため、イラつくという不快さがどんどん出てきたのだった。
ま、動物的上下関係規範に則って振舞っても相手が効かないときは聞かないんですけどね。
なぜ、そのような関係の様式を彼女はとるのか。
おそらく彼女はそのような関係の様式が基本スタイルなのだ。
初期設定がこの関係の様式なのだ。
社会人なんかの関係の様式は人生のかなり後の方に内面化されたものであることが考えられる。
従って、初期設定しか持ち合わせていない彼女は、自分以外の他者に反応するとき、この記事で言う動物的上下関係様式が発動するようになっている。
それに抗ったり、別の様式を作動させようとすることはまだ難しい。
それしかないのだ。
だから、何か彼女がこちらがイラっとすることを発言したとする。
その発言というのは、その関係様式ががバックボーンにあるので、
なんでそんなこと言うの!と問い詰めたところで
彼女が元々持っている様式に基づいているので、なんでと言われても答えられない。
なんでって言われても、困るのである、そうするしか発想がないからだ。
日本語しか知らない人に、なんでサンスクリット語で話さないんだ!とロシア語で怒っても、分かんねーよ!ということになる。
ま、標準設定がそれしかない上に、オプションは未完成という状態なので、標準設定を適用するしかない、ということなのだ。
と、今日はそんなことを考えました。