理想の生活
中学生の頃、私はサッカー部でした。
当時はサッカーがやりたかったんですね。
勉強の方は、中1の数学であっという間についていけなくなりました。
勉強はすごく好きという訳ではなかったのですが、危機感を感じて親にお願いし、塾に通わせてもらいました。
当時の担任との面談で、「部活をやるために通っている」と話した覚えがあります。
そういえば、学校というのは、朝登校して、日中勉強して、夕方に部活をするという流れでした。
今私は、パソコンを教える仕事をしています。
私は社会において何が何でもこれがやりたい!ということがなく、持続可能で自分に合っていることができたらそれでいい、という考えです。
この会社でのし上がっていくみたいな気はありません。
中学生の当時というは、自分がやりたいこと=サッカーが日常的にできましたが、今は通勤と労働と睡眠で一日が終了します。
なんていうか、仕事に夢も希望も無いという感じです。
ただ、求められる機能を果たして給料をゲットする、という生存の為に働いているという感じです。
ある意味、楽しみに割く時間がない。
私の楽しみとは、料理、音楽、読書、思索、ネットサーフィン、ゲーム、とそんなところなのです。
要は、生活様式が自分にとってあまり良くないという感じです。
しかし、近所で適当に良い仕事もまだ見つからないので、もう少し働くことになりそうです。
本来の自分でなくていい
タイトルが私のキーワードなのです。
「本来の自分でなくていい」
こう唱えることによって、私は首の後ろから近辺の背中の辺りの緊張がすーっと引いていく感覚があるのです。
これを唱えずに過ごしていると、別に何も起こっていないのにずっと頭が項垂れて、下を向いているのです。
頭が項垂れているとき、首や背中、肩の辺りも緊張していて、そこだけ力を抜こうと思ってもなかなかうまくいかないのです。
つまり、頭が項垂れる癖というのは、心因的なのだと推測されます。
うっかり忘れていると、この項垂れが不自然な態勢と緊張を生み、疲労がたまりやすくなるのです。
本来の自分、とは何なのか。
私の本来の自分とは、これまでの傷つきとそれらの悲しみ、怒り、みじめさ、不安、抑うつ、なのかもしれません。
無意識と意識の間、前意識的に上がってくるもので、体に作用しているようなのです。
多分、過去のネガティブ感情にこだわらざるを得ない自分なのでしょう。
もうこだわらなくてもいいのですけどね。
職場で誠実である、ということ。
私は以前、職場で誠実であることにかなり意識していました(いや、今も抜けてないですが)。
職場では、ある程度の誠実さは必要です。
出勤日時を守るとか、約束を守るとか、一般的なルールを守るとか。
ということ以上に人に誠実である、ということを意識していました。
誠実に人に接する、嘘をつかない、誰にでも人当たりよく、全方向にいい人であるというようなことです。
で、なんでこんなことを意識していたかというと、本音と建て前があるのです。
建前:社会人として常識的に接する。
本音:誠実に振舞うから、自分を受け入れてほしい。
この受け入れてほしい、というのが曲者なのです。
受け入れてほしい、というのはある意味では、自分を丸ごと受け入れてほしい、ということであり
自分の評価が他人軸によって決まってしまっているような感じなのです。
だから、既にたくさん仕事を抱えているとしても、事情を説明して断るとか、きつくても言えないとか、そういう事態になるのです。
なぜかというと、断ったら見捨てられてしまうかもしれない、という不安があるからです。
そもそも、相手はそんなレベルで自分に接していないのですが、こっちとしては愛情の授受の死活問題のようになっています。
あなた上司です。部下に何を求めますか?
愛ですか?
きっちり仕事をこなすことですか?
こっちは、仕事を通して見捨てられないとか、好意が欲しくなってしまっていますが、
上司は、しっかり頼んだことをしてほしいと思っています、何かあれば報告してほしいと思っています。
なんかすれ違っていますよね。
誠実に全力を尽くして、愛情をもらおうとしても、もらえない訳で、
ミスをして怒られても、別に人格について言及されている訳でもありません。
あなたの仕事での働き=役割、機能を見られているのです。
人格に言及してくる人には近づかない方が良いでしょう。
大事なのは、役割や機能を果たすことで、怒られたとしたら、あなたの役割遂行方法を修正すればいいのです。
方法や上司の考えと違ってたんだな、と思えばいいのです。
と、そういう風に、
職場とはあくまで機能をはたしてお金をもらうところであり、
自分の本来の姿でなくていいですし、
大袈裟にいえば、きちんと役割をはたしていれば八方美人でなくてもいいのです。
そんなふうに最近考えて働いています。
社会と自分のバランス
何だったんだ自分の人生のパートいくつ目になりますかね。
私は今、某社に就職が決まり研修を受けています。
本社研修は、自宅から遠いのでホテルに泊まっています。
研修から帰ってきて、すぐ風呂を溜めてあー気持ちいいと自由を謳歌しているんですが、
この自由が妙なんです。
仕事終わりの風呂は気持ちいい。
誰からも邪魔が入らない。
とても気持ちいい
と、そこで何故か虚しさも少し心に吹いているのです。
今までの私は、実家にいた頃の私は、親の目ばかり気にしてある意味いつもビクビクして
楽しいことも楽しくなく、わざと色々なことへの興味を持たないように、興味の芽を潰すようにさえしてきた気がします。
でも今ひとときの自由にきっと私は慣れてないんでしょうね。
しかしいいことばかりでもなく、お金は浪費気味でありかつ、配属先も遠い。
いいこともやなこともあって複雑です。
それと私というのはやはり100%幻想は拭いきれず、疲労が溜まってくるとじわじわ勢力を増してくる。
なので、仕事に対して、本来の自分でなくてよく機能を果たせばいいと言い聞かせるんですが、
バランスがよくわからないですね
社会と自分の関係での話。
思えば、私というものは社会や集団から外れていくことばかり希求してきたわけなのですが、
こと就職においては、自分を社会にどう位置付けるかということを考えないといけないようです。
社会とか集団の中で自分の立ち位置をどうとるかという、私にはなんか嫌な感じのする話です。
というのも、中学、高校で、私というのは同級生からいじめ、嫌がらせ的なことを受けてきた過去がありまして、集団に入るのにいまだ抵抗があるようなのです。
まあもう学生ではないので、ダメだったら別の集団に行けばいいということは分かっているんですがね。
あう集団を探していくというのがなんだかしんどい、というか、めんどい、というかそんな思い、腰が重い、気が重い、そんな感じがあるのです。
本当は特別集団に所属しないで稼ぎが得られればいいのですが、
一人は一人でしんどいのではないかという、
なんか理想を追っかけてしまうというか、100%幻想のようなものを考えてしまいます。
なんだったのか今までの人生。
朗らかな友人がいるのですが、
彼は我が道を行くタイプで、それでいて他者とも調和的に生きている感じなんです。
とてもさっぱりしていて、それでいて、嫌味がない。
彼のSNSを拝見していたところ、亡くなったお祖母さんから「彼女ができたら会わせてほしい」という言葉をもらっていたようなのです。
彼もお祖母さんを慕っており、彼にそのような温かい言葉をかける親類がいた、そのようなことを初めて知りました。
親類、家族が、後ろ盾になるような、励ましをくれる存在というのはいいものですね。
私はどちらかというと父親からはプレッシャーとかストレスを感じていましたし、父方の祖母は母親に嫌味を言っていたとかであまり好きになれず、母親は既に他界済み。
父方の祖父、母方の祖父母は私が小さい時には既に他界済み。
子どもの目の上のたん瘤みたいなことにはならない方がいいようです。
私は、20代では、仕事選びや仕事の考え方では父親と衝突し、職場では遺体発見に適応障害。
謎の苦労をしてきたような感覚があります。
それでいてあまりスキル獲得などにはつながらない苦労でした。
友人と比べることで、いい意味で私の人生の振り返りの機会となりました。
なんだったのか今までの人生。
無駄に、というか、無い人には無い苦労をしてきてしまいました。
なんだか不思議な気分であり、今の方が地に足がついているかのような、自分の人生のスタートラインにたったかのような、少し今までの人生に悲しみがあるような、そんな気分です。
今までなんだったんだろうか。
親に近況の詳細を伝えず、早1年を迎えようとしています。
具体的には、
仕事を辞めていたこと
この1年間無職だったこと
そのくらいですけどね。
最近、貯金も減ってきたので、就職活動をしています。
一人暮らしを続けるために、お金が減ってきたので就活をする。
この単純なことに肩透かしを食らっているかのようです。
実家に居た頃は、親が私の職について口出しをしてきたので、機嫌なんかを窺ったり、意見の対立からぶつかったりしていました。
今は、親にその辺を隠して勝手に生きているので、そのストレスがないです。
こんな単純に生きられるもんなのね。
いや、働き始めたらそれは色々あると思いますが。
今までなんだったんだろうか。