誰も見てないブログ

介護職していて、一人暮らし始めようとしたら適応障害になって仕事辞めたアラサーがただ自分のこと書いてます。ここを見てるのはあなただけ。

映画見て昼寝して。

寝てる最中にいつの間にか腹を出して寝ていたらしい。

 

朝起きると腹の調子が悪い。

 

こういう時は水分をよく補給しなきゃいけないと彼女から教わったので、何か水分をとらねばと思う。

 

しかし、水分だけを口に含むのは腹の具合として気が進まない。

 

一方で、少し腹が減ってきたからスパゲッティを食べることにした。朝。

 

ソーセージと玉ねぎを切ったものをオリーブオイルで焼き、トマトジュース、塩と砂糖で味付け。

 

ノートpcの前に座り、最近好きな町山智浩さんの映画解説動画を見ながら食べる。

 

サウルの息子 という映画が素晴らしいとのこと。

 

アマゾンプライムで探してみると有料だった。

 

一度昼寝をした後、無職なのに有料コンテンツはいかがなものか、と悩みながらも結局視聴権を購入した。

 

お昼もスパゲッティを食べた。

 

玉ねぎとソーセージを切ってオリーブオイルで焼き、卵、牛乳、チーズと塩胡椒で味付け。

 

失敗して牛乳が固まり、ぼそぼそした食感だった。

 

それを食べながら、サウルの息子を見た。

すこし詳しい感想はこちら。

hutome.hatenablog.com

 

 

町山さんの解説のおかげで内容の背景も良くわかり、そうでなくてもとても引き付けられ、目が離せない。

 

アウシュビッツビルケナウ強制収容所での話だ。

 

ゾンダーコマンド、ドイツ語で特殊部隊という意味らしい、収容所内の囚人の中から選ばれた囚人で、殺害したユダヤ人の死体の処理をしていた囚人達の話だ。

 

普通の囚人もゾンダーコマンドもどちらもユダヤ人だ。

 

むごい。

 

しかし、目が離せない。

 

腹の調子の悪さを忘れるほどだった。

 

見終わった後、思わず強制収容所やゾンダーコマンドについて検索した。

 

ほんとは、求人でも探さないといけないのに。

 

一通り検索した後は、昼ごはん食べて腹いっぱいだから食休みせねば、という言い訳で昼寝をした。

 

求人も検索したが、迷うばかりだ。

 

ちょっと一息のつもりでペンギンの島というアプリをする。

 

ペンギンが可愛いのだが、時間をやたら食われる。

 

バッテリーもすごい食われる。

 

そんなこんなで夜になり、パンツマンの動画を見ながら夕飯を食べた。

 

腹の調子は少し良くなったが、頭が冴えない。

 

明日はよくなってるといいな。

 

風呂も入らず寝る。

心の問題の独り相撲

心の問題というのは、自分か周囲の人が困っているか、何らかの診断基準に当てはまるか、みたいないくつかの基準が考えられますが

 

 

近頃考えるのは、独り相撲になっていることがあるということ。

 

 

私はアラサーで一人暮らしをしています。

 

私の心、考え方や行動の傾向で気にかかる点というのは、おそらく過去の経験から来るものだと考えたりします。

 

 

その過去の経験というのは、親との関係上の物だと思うのですが、

 

今現在、私は親と暮らしていません。

 

つまり、いつのまにか自分の心に生まれた厄介者と今の私がいざこざを起こし、更には私の周囲へも影響しているという感じがするのです。

 

問題を抱える、という表現がありますが、私はいつのまにか抱えたある傾向(問題)と私がやりとりしている。

 

どちらも私の側面で、外から見れば、私の側面と私の側面が争っているかのようで、どちらも私なので、独り相撲という具合に感じます。

 

 

しかし、このいつの間にか抱えたある傾向というのが、なかなか捉えにくいのです。

 

正体が何なのか捉えにくい、言語化しにくいのです。

 

私は人から優しいなど言われますが、どこか冷たいところも自覚しています。

 

最近、この冷たさの正体は、親から信頼されてこなかった私、なのではないかと思うのですが、

 

いつもどこか核心部分で信頼されてこなかった私、というのが今においても私の心の主導権を握っているようなのです。

 

核心部分を信頼されずに悲しむ私は、他者に対しても同じように振舞っている可能性があるようです。

 

つまりどこかで、お前は信頼しないぞ、お前がしたい通りにさせないぞ、というような怒りを煮えたぎらせているみたいです。

 

無自覚に過去の怒り悲しみを抱え続けているようですね。

 

そんな今も生き生きとしている悲しみ怒りに慰めを。

誕生日がお目出度い人に驚くアラサー。

関わっている小1が嬉々としてこんなことを言う。

 

「はやく誕生日になってほしい」

 

なんで?と尋ねると

 

「パーティだから」

 

 

と嬉々として答えた。

 

 

いい大人ならば「そうだね、来年は何が欲しい?」とか笑顔で共感的な返答をするんだろうけど

 

自分の誕生日が母の命日でもある私は、この子は自分の誕生日が祝われて当然で、自分の誕生日がめでたい日だと疑いなく思っている、

 

という事実に衝撃を受けてしまいます。

 

いや、まあだいたいの人が自分の誕生日と近親者の命日が重なってないんだと思いますが。

 

私の場合はただ目出度いだけと言うわけではないので、その純粋に自分の誕生日が嬉しくて待ち遠しいという気持ちに驚くばかりか反発さえ感じてしまいます。

 

 

この子にとって誕生日が祝われることが当然である、ということ。

 

当然の権利であるかのごとく感じられるのは、嫌な感じがしてしまいます。

 

いやこの子は何にも悪くないんですけどね。

 

自分が誕生した記念の日を祝ってもらえる、すばらしいことです。

 

即ち、誕生を肯定されて、祝福されているということでもあると思うので、その事実をすばらしく思います。

 

私の場合、11歳の誕生日に母親ががんで亡くなり、自分の誕生日がただ目出度いだけの日ではなくなりました。

 

私にとって自分の誕生日は母親が亡くなった悲しい日でもあるのです。

 

誕生日に対する感覚の違いに驚いているのです。

 

誕生日がお目出度くない人だっているんだぞ、という思いが頭をよぎります。

 

いやまあ実際にそんなことを言うわけではないですけどね。

 

そして、私は心のどこかで自分の誕生日を祝ってほしくないという思いがあります。

 

実際に祝われたら嬉しさもきちんと感じるんですけどね。

 

しかし、心のどこかに誕生日を祝われることに拒否感があります。

 

たしかに俺が生まれた日だけど、俺の母親この日に死んで悲しい思いがよぎるから別に祝わわなくていいよ…。

 

という気持ちが常にあります。

 

いや、そうじゃない人に対して恨みとか嫉妬とかは無いですが、そっとしておいてほしいなということなのでした。

 

 

子どもとの関わりに適用される動物的上下関係。

なんとなく、調子がすぐれない。

 

けど、今日も子守り業務に出かける。

 

幼稚園児に「そろそろ時間だからカバンを準備してほしい」と伝える。

 

私は正直言って、自分の荷物は自分で準備してほしい。

 

「先生も手伝ってくれるならいいよ」

 

この返事で少なからずイラっとする。しかし、自分を抑えて「じゃあカバンの中身出して」と言う。

 

どうせ、昨日のものが入りっぱなしなのだ。

 

するとまた条件を付けてくる「ここにカバンをもってきて」

 

持っていく。しぶしぶ中身を出すが出すだけだして片づけるよう命じてくる。

 

なので、自分でやってと突き返す。

 

正直私はここでもうキレている。

 

カバンを投げつけたくなる気持ちを押しとどめて私は別のことを始める。

 

すると、なぜかその子の2歳年上の姉が「私がやる」とカバンの準備を申し出る。

 

私は自分でやれよ!と言いたい気持ちを我慢してそっぽを向く。

 

そして、本人は何もせずに、姉に任せっぱなしなのである。

 

まあこの状況が私は嫌な訳だが、ここでいつも自分の問題に向かざるを得なくなる。

 

今日の私というのは、保護者のマインドになかったのだ。

 

面倒くさがる彼女と同じに在りすぎているのだ。

 

それを彼女は持ち前の臭覚でもって、同等の存在として振舞ってくる。

 

それが「手伝ってくれるならいい」というどっちが上だか分からないことを言ってきたのだ。

 

私といえば、その保護者として、言い換えれば大人として、上の者として振舞うことが非常に面倒くさい。

 

且つ、慣れていない。

 

彼女との関わりでは、そのような動物的上下関係の規範が適用されているようだ。

 

彼女はそのルールの下で生きている。

 

非常に面倒くさい。

 

どちらかが上ならば、上に立った方がゲームのルールにおいて優位であり、他方を服従でき、支配できるのである。

 

同等になった場合、相手はすかさず上に立とうとしてくる。

 

それが当たり前の振る舞いだろ?と言わんばかりである。

 

そういったパワーゲームが私は本当に面倒くさい。

 

たかが小さな世界で上に立ってなんだというのだ。という気になるのだ。

 

しかし、そのルールでしか動けない彼女は、嫌なことは嫌で、なんで貴様に命令されなくてはならんのだ、という態度をとる。

 

私はむかつく訳だ。

 

しかし、彼女はしぶしぶ従うことがある。

 

その際には、モノに当たったりする。

 

それが更にむかつく訳だ。

 

しかし、これは私が相手に、同等だよ、と言いつつ命令するという矛盾した態度をとっていると相手に理解されているからでもある。

 

相手とは人生が浅く、そこまで様々なことは考えられないのだ。

 

ここで、もう一つ、相手の理解のベースに合わせてこちらの振る舞いを調節しなければならないという気を遣う事態を発生させなければ、

 

イラっとすることが増えるのだ。

 

もしくは、こちらが、面倒くせーと思っているとそれが伝播している模様だ。

 

つまり、いづれにしても私にとって面倒くさいのである。

 

そして、今日の私には、相手の規範に合わせてあげるということを面倒くさがったため、イラつくという不快さがどんどん出てきたのだった。

 

ま、動物的上下関係規範に則って振舞っても相手が効かないときは聞かないんですけどね。

 

なぜ、そのような関係の様式を彼女はとるのか。

 

おそらく彼女はそのような関係の様式が基本スタイルなのだ。

 

初期設定がこの関係の様式なのだ。

 

社会人なんかの関係の様式は人生のかなり後の方に内面化されたものであることが考えられる。

 

従って、初期設定しか持ち合わせていない彼女は、自分以外の他者に反応するとき、この記事で言う動物的上下関係様式が発動するようになっている。

 

それに抗ったり、別の様式を作動させようとすることはまだ難しい。

 

それしかないのだ。

 

だから、何か彼女がこちらがイラっとすることを発言したとする。

 

その発言というのは、その関係様式ががバックボーンにあるので、

 

なんでそんなこと言うの!と問い詰めたところで

 

彼女が元々持っている様式に基づいているので、なんでと言われても答えられない。

 

なんでって言われても、困るのである、そうするしか発想がないからだ。

 

日本語しか知らない人に、なんでサンスクリット語で話さないんだ!とロシア語で怒っても、分かんねーよ!ということになる。

 

ま、標準設定がそれしかない上に、オプションは未完成という状態なので、標準設定を適用するしかない、ということなのだ。

 

と、今日はそんなことを考えました。

育児は仕事

最近毎日、知り合いのお子さんの見守りをしているんですが、

 

自宅に帰ってくるとすごい疲れがきます。

 

なんだ、この疲れは。。。と思っていたんですが

 

これは、仕事から帰ってきたときと同じだ。。。

 

ここでいう仕事とは、私がかつて会社で働いていた時の仕事のことです。

 

つまり、育児は仕事と同じくらい大変なのである。

 

私の場合、子どもの見守りを朝8時から夕方5時まで、だいたい9時間。

 

明確な休憩時間はありません。

 

それを月曜から金曜日まで、週五日。

 

就職していたころと労働時間はだいたい同じです。

 

そりゃ疲れるわけだ。

 

 しかも、未就学児は大人の常識はあまり通用しません。

 

聞き分けのいい子もいるので、人に寄りますが。

 

あと、何分で○○する、と言っても、時計が読めない。

 

楽しいことを辞める、ということが難しい。

 

やる、と言ってもやらない。

 

辞める、と言ってもなかなかやめない。

 

見て、見て 

見てないと不貞腐れる。

 

いつもと違うと気持ちが乱れたり、やらなくなる。

 

簡単な言葉でないと伝わらない。

 

でかい声を出す。

 

暴れる。

 

常識的にやってはいけない、という理解のベースが異なる。

 

と、大変です。

 

一方で、一緒に遊ぶと、いい笑顔を向けてくれたり、

 

抱き着いてきたり、可愛かったりするんですけどね。

 

で、この基本大変なことの中にたまに良いことがある、という状況は

 

ギャンブルとかガチャに近い感じがします。

 

基本はずれだけど、たまに当たりがくる。

 

その当たりが予期せぬタイミングでくる。

 

学習の心理学でいう、強化スケジュールみたいな感じですね。

 

あー大変。

子守りしんどい

知り合いの子守りをしているんですが、しんどい。

 

私の関わり方が、近ごろ朝8時から遅いと夜の10時くらいまでで、

 

一緒に昼ごはん食べたり、夕飯をごちそうになったり、あとの時間はひたすら子どもの「見て!」「遊ぼ!」に付き合っています。

 

これがまあしんどい。

 

それと、幼稚園の準備をさせるのもしんどい。

 

一人でできるのに、一向に別のことをしてやらなかったり、「手伝って」と甘えてきたり。

 

こちらに余裕がないとイラっとしますね。

 

と思う一方で、

 

いやいやながらやる、ということがいかに彼らには難しいのか、ということに思いをはせたり

 

気持ちの切り替えがいかに難しいのか、

 

そんなとこを考えたりしますが、余裕がないと意地悪したくなってしまいますね。

あつ森を進められてへこむ

最近、日中に知り合いのお子さん(未就学児)の見守りをしているんですが、

 

まあ「見て!」を何度も言われて、それが結構疲れるんですよね。

 

この「見て!」は、子どもの関心、注意の対象に自分も注意を向けさせられて、

 

そして、なんらかの反応を求められていて、日に1~2回ならまだしも、

 

まあ何回も何分も繰り返し繰り返し求められるので結構しんどいです。

 

あと、子どもがやっているswitchのあつ森を私もやっているんですが、

 

時折、私のあつ森のデータで遊ぶことがあるんですが、

 

ふと目を離した隙にメインストーリーを進められてしまいました。

 

それが、私はすごい嫌だったわけです。

 

私は一人でしこしこ邪魔されずにプレイしたかったのに。。。

 

と、しかし、その子は聡明で「勝手に進めてごめん」と。

 

うー、そんなこと言われてしまうと、いいよ、と言わざるを得ません。

 

自分のデータを遊ばせてしまったので、そういうことも仕方ありませんが

 

あーやだったなぁ。。。

 

そんな感じで、あつ森を進められてしまったことに不快感や落ちこみを感じていました。

 

しかし、進めないのも悔しいので、攻略サイトで先に色々先の展開を把握して、遊ばせる前に自分でメインストーリーみたいなのはやってしまおうと思います。

 

そんなだったら、させなければいい、というご指摘はごもっともなんですが、先日間が持たないことがありまして、

 

その際に起こった事故なんでした。