愚痴とか不満を言うことが人生において意味あることになっている人の話。
職場のパートさんの中に、徒党を組んで誰かの愚痴や陰口をたたかずにはいられない人がいる。
上長はその件に関して過去に何度も注意しているとのことだ。
しかし、依然として変わらないそうだ。
なんでも、昔いじめられた経験があるとか、ないとか。
その腹いせなのか、恨みなのか、いじめが要因ならば、
そのいじめられ経験がそのパートさんに相当のしこりを残しているんだろう。
そして、今もその延長で徒党を組んで社員のやり方、会社のやり方への不満を話し合うということを趣味にしてしまっているっぽいのだ。
ここで思うのが、そんな生産性のない、ただ不満を言うことがそのパートさんの人生にとって意味のあることになってしまっているということだ。
もし、いじめが本当にあったことだとして、それはとてもつらい経験だったろうと思う。
多分、いじめた方が悪かったんだろうと思う。
でも、だ。
その、愚痴を言うとか、文句ばかり言うこととかが人生にとって意味のあることになっているのだとしたら、
なんだか、虚しくないか?
不満から、現状に対する課題点、問題点を抽出し、改善案とかの提案まで進めば、不満を感じることも一定有意義だと思う。
しかし、生産性のない、目標のない、文句や不満を言い続けて一体何になるんだろうか。
その一時は気持ちいいかもしれないが、ずっとそれを続けるのは、そんなことを人生の価値あることにしてしまっていいのだろうか。
いじめた、いじめられた、そんなことは関係なく、愚痴で終わってしまって、周囲に悪影響を及ぼす、周囲に不快な目を合わせることが人生にとって意味ある事の上位にいるっていのうは、過去の傷つきとか、恨みとか、そういったものがまだ、仮に何十年前の出来事だったとしても、のどに刺さった小骨のようにずきずきと痛み続けているのではないかと思う。
多分、その人の人生にとって意味のある事を人はやっているんだと思う。
だから、人生にとって意味あることが仕事なら、きっと仕事を優先してやっているだろうし、
人生にとって意味あることがおしゃれすることなら、おしゃれが優先的にされるだろうし、
私は、愚痴をいうことが人生にとって意味あることになってしまっている人は面倒くさいし、愚痴を言うことに価値を置いているということがなんだか虚しく感じる。
ここで、困ったことは、本人がそうしよう!という確固とした意志によるものではなさそうということだ。
いつの間にか、また、自然な思考の流れによってそうなってしまっていることに悲劇を感じる。
そうだから、傷つきからのネガティブな思考の自然な流れというのは、一度意識的に断ち切らないといけないんじゃないかとおもうんだよね。
過去の記憶は、それ自体は変わらないかもしれないが、見方、解釈を変えたり、ネガティブな思考は断ち切ることもできると思うんだよね。
一度真剣に考えてみたい。
何が、あなたの人生にとって意味のあることですか?
何があなたの人生にとって意味のあることになってしまっていますか?
意識しないうちに、周囲に迷惑をかけるだけのことが人生の意味になってしまっていませんか?
ポジティブなことに抵抗がある人はきっと、過去の悲しみ、傷つきが癒されていないのでしょう。
多分ね。