私の中にいる被害者で加害者の私
私の中には、親にやられてきた人格というか心性のようなものがある。
解離性同一性障害ではない。
私の場合は、所謂はっきりとした虐待(身体的、心理的、ネグレクト)を受けてきたわけでもない。
じゃあ親にやられてきたとは何のか。
父親は私に権力争いの姿勢でかかってくる。
テレビのニュースなんかで父親が何らかのコメントを言う。
当時23歳前後の私も、知ってる知識や意見などを返す。
すると父親は無視するのである。
父親は自分と異なった意見について、自分の権威が脅かされたかのように感じているのではないかと思う。
そこで、自分のほうが優れている体を回復するために、こちらの意見など取るに足らないとでも言うのつもりなのか、無視する、または別の話題で返してくる。
こうなると、私は自分の意見を受け取ってもらえず、無味乾燥の悲しみにさらされる。
次第に同じ空間にいるのに寂しくなってくる。
また、私は母親と11歳で死別し、大袈裟に言えば、ずっとそのグリーフを抱えて10代、20代と過ごしてきた。
私はそのグリーフについて色々考えたり小此木圭吾著「対象喪失」を読んだりしてきたが、どうにも付き合い方が分からず、母親のこととなると都度生々しく悲しくなったり傷ついたりしていた。
そのためか、自分に自信がなかった。効力感もなかった。
大学3年くらいで既に人生疲れ切った思いでいた。
大学卒業したら老後に入りたいと思っていた。
当然希望の仕事などもなく、就活も難航した。
やりたいと思える仕事も全然ないだけでなく、面接という場で自分について話すことも大変に緊張し、アピールなんてできもしなかった。
父親に「やりたい仕事ないの?」とぶっきらぼうに言われてひどく傷ついた記憶がある。
なんてことない質問だが、とても痛く辛い問いかけだった。
父親の顔色を窺って過ごした。
20歳過ぎていたが、私は父親の気分でいつ食料が絶たれても仕方ないというような気でいた。
その後なんとかかんとか私は大学院に逃げ込んだのだが、父親とはこと働くことの話題となると、私の無力感などつゆ知らず、怒ったような様子で私に詰めてかかるのだった。
私の自信、自尊心、効力感といったものは紙1枚くらい薄さしかなく、おそらく真っ当に自尊心が育っていれば父親の言葉にもそこまで傷つかずに済んだのだろう。
私は都度無力感を刺激されひりひりと痛み悲しみを感じるだけで、私の認知機能はオーバーヒート状態だった。
大学院は楽ではなかった。忙しかった。そしてしんどかった。
2年間あっという間だった。
私は修論で手一杯で就活はできなかった、と周囲に言っていた。
本当は、専門職の道も考えたが、私では不適格だと感じていた。
心理学を学んだが、自分のケアをしないと人のケアをしている場合ではなかった。
その道のバイト先を見つけようとも思ったが、父親に険しく苦情を言われ、専門職は諦めた。
既卒となり、引く手あまたの介護の会社に入社する。
介護の会社では、人の死に文字通り直面した。
仕事上といえども、人の死は非常につらかった。
この仕事を一生の仕事にしようとは思えなかった。
転職すると父親に言えば、どうしてか不機嫌になる。
従来の価値観から言えば、転職はだめなのだろう。
私は、人の死に接する辛さが分からないのにどうこう言ってくるなと抗議していた。
なんやかんや介護の会社は3年半くらい務めた。
私は一人暮らしをしようと思った。
それもなぜか父親に偉く反対された。
父親は私のことをいったいどうしたいのか私はさっぱりわからず、苦しんだ。
一緒にいてもろくに会話もせず、しても会話はお互いにボールを投げるだけで受け取らない。
それなのに家を出るな、である。いったいもう訳が分からない。
それでも何とか「勝手にしろ」と言われ一人暮らしを開始した。
その顛末は以前の記事に投稿した。
親元を離れたが、今度は彼女の子ども達と接する機会が増えた。
子どもには悪気無く傷つけられる。
私には治ってない傷が多いみたいだ。
普通の人には何でもないことだが、お子さんらが何の気なしに触れる私は傷口だらけで勝手に傷つく。
親元を離れたのはいいが、親子関係でボロボロになった私というのが、私の中にいる。
その私というのは、相手が子どもであっても相手の不機嫌に巻き込まれ自分が完全に悪いかのような気がしてしまう、相手の要求を自分が辛くなっても飲み続けなくてはならないような気がしてしまう、断る勇気がない、といった感じなのである。
自分の親子関係で、自分は被害者だったはずなのだが、その被害者としての自分が自分自身を苦しめる加害者にもなっていた。
被害者としての私は子どもと接する場で生じる対立やすれ違いの時に私を責めたり私が主張することを邪魔したりする加害者でもあるようだ。
なので、私は他人とすれ違っても良いと考えるようになった。
まだ完全ではなく、度々自分の被害者で加害者の心性に心を飲み込まれてしまうことがある。
子どもというのは、自分と認知能力に差もあれば、価値観、生活スタイル、体力、見えるもの、なんでも違う。
すれ違ってばかりいる。
私も一緒にいて彼らの遊びに付き合うが、やはりもうこれ以上遊ぶのはしんどい、今は疲れているからもう辞めたい、といったすれ違いが起こる。
被害者で加害者の私は、そんなときに適切な主張を妨げる。
少し休みたいだとか、別のことがしたいだとか、私の思いを行動に移そうとすることを妨げる。
すると、私は苦しいのに何も言えず、付き合い続けなくてはならなくなる。
私はそうなると心身疲れ切る。
子どもって言うのは、安心しているせいかもしれないが、平気で不平不満を言ってくる。
それと遊んで、遊んでとこちらの気など考えが及ばないようだ。
その時に、私は「人とはすれ違ってよいもので、すれ違っても並走できる」と自分に言い聞かす。
すると、私は自分の気持ちを主張するきっかけをつかまえる。
反対に、それを忘れて被害者で加害者の私が無自覚に主権を握ると、私は一気に苦しくなる。
私自身も苦しく、また怒りを感じ、罪のない子どもにイライラしてしまう。
すると、関係はこじれる一方だ。
私は自分の心性と付き合い、自分の機嫌を自分でとっておきたい。
機嫌の悪さは関係悪化を深めてしまう。
だれも望まないはずだ。
自分の心性と付き合い、自分の機嫌を自分でまかない、良好な関係を持っていきたい。
そんなことを考える30歳の今日この頃だ。